はるな愛、避難所で「愛ちゃん!」と声をかけられて…。被災地訪問はボランティアというより“おたがいさま”という気持ちで

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タレント活動をしながら、「こども食堂」などの子ども支援や、東日本大震災や能登半島地震の被災地支援などのボランティア活動も積極的に行っている、はるな愛さん。ボランティア活動を始めたきっかけや続ける理由、被災地支援に行って感じたことなどを教えてもらいました。最後には、子育て中のママ・パパへの応援メッセージも!
東日本大震災の被災地の悲惨な現状を見て、「応援してもらったぶん、返さなあかん!」と思い、被災地へ向かいました
――はるなさんが、ボランティア活動を始めるようになったきっかけは、チャリティー番組への出演だったとお聞きしました。
はるな愛(以下敬称略) 2010年に、日本テレビの「24時間テレビ」でチャリティーマラソンのランナーをしたときに、視聴者の皆さんからたくさんの応援メッセージをいただき、とても励みになりました。それまでも、私はテレビを見ている方から「愛ちゃん!」と、親しみを持って声をかけもらう機会が多く感謝していましたが、改めて、私はたくさんの人たちに応援してもらって、支えられていることを実感しました。
そして、その翌年の3月に東日本大震災が起きて…。震災のあとしばらくは、仕事はほとんど止まりましたが、コメンテーターとして出演していた「スッキリ」は、現地からの中継を積極的に放送していたんです。
それで、出演中、スタジオで被災地からの中継を見て、「ちょっと待って、現地にはこんなにたくさん困っている人がいるなんて」と衝撃で。被災者の皆さんが、地震や津波で悲惨な経験をして、まだ大変な状況にいることを目の当たりにして、心苦しくなりました。それで、「私、返さなあかん!皆さんにあれだけ応援してもらって、私ができることってなんやろう…」って思って。それで、被災地に支援に行くことにしたんです。
私が経営しているお好み焼き屋「大三」のスタッフに、実家が福島県の相馬市の子がいて。漁師の仕事をしているお父さまは津波で亡くなってしまったんですけれど…。そのスタッフに相談して、救援物資を車に積めるだけ積んで、通れる道なんかも教えてもらいながら、現地に向かいました。震災から10日後くらいで、まだ救援物資も全然行きわたっていないときだったと思います。粉ミルクとか、紙おむつとか、思いつくものを積めるだけ積んで行きました。
スタッフの相馬の実家にも寄りましたが、震災が起きる前、私も何度か遊びに行かせてもらったことがあるので、そのおうちが跡形もなく流されてしまったことが悲しくて。「ここ、トイレがあったところです」と言われても、涙があふれて全然見えなくて…。
そのとき、避難所にも寄ったのですが、私を見るなり、「愛ちゃーん!」って泣き崩れる方がたくさんいて…。「おばあちゃんの手をはなしてしまった」とか「息子が流された」とか、つらい経験を話してくれて、「震災後、泣けずにいたけれど、初めて涙が出た」という方もいました。
避難所に集まっている人は、支援をする人も受ける人も皆さん被災されていて、「私より、あちらのほうが大変だから、あちらを優先して」と、他者を気づかっているように見えました。そんな中、被災者ではない第三者で、テレビで見ていた私が来たことで、張り詰めていた気持ちが緩んで、涙が出たのだと思うんですよ。それで、私は、「これは、毎月、絶対に来ないとあかん!」って思って、毎月、避難所にお邪魔するようになりました。
――支援物資を持って行ったり、お話を聞いたりとか、そういう活動を?
はるな はい、そうです。避難所には子どもたちもたくさんいて、「愛ちゃん、ぼくの段ボールの部屋見せてあげる」なんて言って、私の手を引っぱってうれしそうに案内してくれる子もいました。あるとき、中学生くらいの女の子が私のところにきて、「初めて、この体育館でみんなの笑顔が見られました。ありがとうございます」なんて言ってくれたこともありました。中学生の子が、大人たちの表情をずっとずっと見ていたんだな…、そして、どれだけ、皆さんつらく大変な状態だったんだろう…って思いました。そのときのことを思い出すと、今でも涙が出てくるんです。