重度難聴で、2人の子どもを育てるママ。手話を使わず読唇術で会話を。聞こえなくても自分らしい生き方を探し続けて【牧野友香子】

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10歳と8歳の女の子を育てる牧野友香子さん。生まれつき重度の聴覚障害がありながら、幼稚園から大学まで一般の学校に通い、大学卒業後は第1志望の大手企業に就職。出産後に難聴当事者や家族をサポートする会社を起業し、現在は家族でアメリカで暮らしています。友香子さんに、自身が育った環境や現在のパートナーと出会ったことなどについて聞きました。全2回のインタビューの前編です。
自然と相手の唇を読んでいた幼児期
――友香子さんは相手の口の動きを読んで理解し、自身も発声して話す「口話」で会話するそうです。このコミュニケーションはいつごろからしていますか?
友香子さん(以下敬称略) 母によると、私は赤ちゃんのころから人の口を見て何を言っているか読み取っていたようで、コミュニケーションが取れていたのだそうです。「口を読む」ことに関しては、だれかに教わったわけではなく自然と覚えていった感じでした。伝わっているから私の耳が聞こえないことに気づかれず、発見が遅くなったそうです。
――友香子さん自身が重度難聴とわかったときのことを教えてください。
友香子 母が「何かある」と気づいたのは、夜に電気を消して寝るときに私に「おやすみ」と言っても反応がないことでした。明るいところで「おやすみ」と言えば何かしら反応をする私が、電気を消すと何も声が出なくなる、ということに気づいたそうです。
母は心配して2回ほど耳鼻科で診察してもらいましたが、医師との問診でも「普通に返事をするから問題ないよ」と言われたそうです。でも「絶対何かあると思う、もしかしたら聞こえないかも」と思った母が「どうしても詳しい聴力検査をしてほしい」とお願いして検査し直したところ、重度難聴との診断。それが2歳のころのことでした。私の両耳で聞こえるのは120db(デシベル)以上の音で、飛行機のごう音が聞こえないくらいです。難聴のレベルとしては最も重度になります。
母は「ちょっと聞こえづらいくらいだろう」と思っていたらしいのですが、まさかの重度の難聴とわかり、あまりのショックに「その日、診断を聞いてからの記憶がない」と言っていました。
――幼少期に友香子さん自身が覚えている違和感はありますか?
友香子さん 診断後から補聴器をつけて生活するようになりました。幼稚園のころは、補聴器をつけていることはみんなと違うけれど、意思の疎通がうまくいかないと感じることはなかったんです。0歳のころから仲よしの幼なじみがいるんですが、その子たちからはあんまり聞き返された記憶もなくて。きっとフォローしてくれていたんだと思います。
だけど、たまに会うお友だちの親には伝わりにくかったようで「なんて言ったの?」とよく聞き返されていました。私の発音が悪くて伝わらなかったんですけど、小さいときは「なんでわかんないんだろう?」と思っていました。
――幼児期から療育などに通っていましたか?
友香子 重度難聴とわかってすぐ、2歳半ごろから療育を受けていました。幼稚園に通いながら、難聴児通園施設と、民間のことばの教室に通いました。
家では、母はあんまり厳しく発音の練習はしなかったと思います。でも、とにかくいろんな言葉を話してくれた記憶があります。絵日記を一緒に書いたりとか、その日にあった出来事を話してくれたり・・・家の中の会話がすごく多かったです。同居していた祖母も、私にいろんなことを話してくれました。家族との豊かな会話が、私の幼少期の語いの幅を広げてくれたんだと思います。